2026年10月2日、女優の福原遥との結婚を発表したサッカー日本代表の久保建英。

発表の夜には、「25歳」「年収9億円という高収入」「レアルマドリー在籍経験あり」「日本代表」「お嫁さんが福原遥」と並べ、自分は「22歳」「FMを1万時間した」(FM=サッカークラブの監督になって遊ぶゲーム)で締める箇条書きがXで一気に広まりました。

ただ、年収9億円やレアル・マドリードと並べられても、サッカーを見ない人にはどれくらいすごいのかピンとこないかもしれません。

久保建英の濃い経歴をひとつずつたどっていくと、あの華やかなスペックのあいだには、箇条書きには書かれていない泥臭く苦い時期がいくつも挟まっています。

10歳で海を渡ってからの不本意な帰国、出番のない移籍、W杯での無念のケガまで、途方もない遠回りを何度も重ねて、ようやくたどり着いた25歳なのです。


スペイン1部で戦う久保建英のプロフィール

レアル・ソシエダの久保建英
引用元:レアル・ソシエダ公式サイト(https://www.realsociedad.eus/)
  • 本名:久保建英(くぼ・たけふさ)
  • 誕生日:2001年6月4日/25歳
  • 生まれ:神奈川県川崎市
  • 身長:173cm(利き足は左)
  • チーム:レアル・ソシエダ(スペイン1部リーグのラ・リーガ。レアル・マドリードとは別のクラブ)/背番号14
  • 役割:攻撃的なミッドフィルダー(右サイドから仕掛ける役が多い)
  • 話せる言葉:日本語・スペイン語・カタルーニャ語・英語
  • 2011年:10歳で、川崎フロンターレの下部組織からFCバルセロナの下部組織へ
  • 2015年:バルセロナが子どもの選手の国際移籍ルールで処分を受けて試合に出られなくなり、日本へ。FC東京の下部組織に入る
  • 2017年:16歳でFC東京のプロ選手に
  • 2019年6月9日:エルサルバドル戦で日本代表デビュー(18歳5日=歴代2番目の若さ)
  • 2019年夏:レアル・マドリードへ。籍を置いたまま、マジョルカ(2度)・ビジャレアル・ヘタフェで経験を積む
  • 2022年7月:レアル・ソシエダへ完全移籍
  • 2023年9月:日本人で初めてラ・リーガの月間最優秀選手に
  • 2026年4月18日:スペイン国王杯(コパ・デル・レイ)で優勝=プロ初のタイトル
  • 2026年6月:北中米ワールドカップに出場
  • 2026年10月2日:福原遥との結婚を発表

現在所属するレアル・ソシエダはスペイン北部の風光明媚な街サン・セバスティアンが本拠地の伝統あるクラブで、2024年2月に延長した契約は2029年6月までまだたっぷり残っています。

彼が戦うスペインのリーグ(ラ・リーガ)は、世界中のスターが集まる、いちばん華やかな舞台のひとつ。

そのリーグで、レアル・マドリードやバルセロナといった世界屈指のクラブと毎シーズンぶつかり合っているのが久保建英です。

 

結婚の発表の夜には、鎌田大地や中村敬斗、菅原由勢ら、日本代表の仲間もお祝いのコメントを寄せています。

日本代表で長く戦ってきた先輩の長友佑都も、Xで「アモーレを大切に」とひと言。

長友自身がかつて交際を明かしたときに話題になった「アモーレ(イタリア語で恋人)」を使ったお祝いでした。


最年少記録が並ぶ久保建英の経歴

サッカーをあまり見ない人にいちばん伝わりやすいのは、久保建英がこれまでに作ってきた〈若さの記録〉かもしれません。

中学3年生だった2016年11月5日には、FC東京の若手チーム(U-23)の一員としてJ3(Jリーグの3部)の試合に出場し、15歳5か月1日というJリーグの最年少出場記録を作っています。

久保建英が10代で作った記録(15歳でJ3最年少出場、15歳でU-20W杯、16歳でJ1デビュー、18歳で日本代表デビュー)

そこから先の主な記録を並べてみると、こんな具合。

  • 2017年5月:15歳でU-20ワールドカップに飛び級で出場
  • 2017年11月26日:16歳5か月22日でJ1デビュー
  • 2018年8月:17歳でJ1初ゴール(J1史上2番目の若さ)
  • 2021年夏:東京オリンピックで3得点(チームは4位)
  • 2023年9月2日:ラ・リーガの日本人最多得点を更新
  • 2023年12月22日:市場価値が日本人歴代最高の6000万ユーロに
  • 2024年9月28日:ラ・リーガの日本人最多出場を更新(167試合)

中でも分かりやすいのが「市場価値」で、これは移籍市場でその選手にいくらの値がつくかを、専門サイトのTransfermarktが見積もった数字です。

その推移をまとめた投稿を見ると、2018年1月に30万ユーロだった値が、2023年10月には5000万ユーロまで跳ね上がっています。

途中の2022年6月には750万ユーロまで下がっていて、レンタル続きの遠回りの時期は、値札にもそのまま表れていたわけです。

 

それがソシエダで出番をつかんだとたんに、2023年10月までの1年あまりで7倍近くまで伸び、12月には日本人歴代最高の6000万ユーロに届いていて、数字だけ見ても、ここ数年の伸びがどれだけ急だったかが伝わってきますよね。

久保建英の市場価値の推移グラフ(Transfermarkt)

記録だけでなく大舞台にも立っていて、2022年のカタールW杯で日本が強豪のドイツとスペインを破った2試合にも出場しています。

日本中が沸いた歴史的な2勝のピッチに、久保建英もいたんです。

子どものころからアルゼンチンのスター選手メッシになぞらえて「日本のメッシ」と呼ばれてきた期待を、ひとつずつ記録に変えてきたのが、いまの25歳の久保建英。


2歳からボールを蹴っていた子ども時代

久保建英がサッカーを始めたのは、2004年、まだ2歳のころでした。

父が書いた本『おれ、バルサに入る!』によると、家にはソファもテレビも置かず、リビングに大小のボールを転がして、いつでも蹴れるようにしていたそうです。

父は出勤前の朝に毎日1時間、近所の公園で一緒にボールを蹴り、1年のうち350日はボールに触っていたといいます。

その一方で、家には絵本が約400冊あり、図書館でも毎週20冊以上借りていたというので、外で体を動かすことと本を読むことの両方を大事にする家だったんですね。

 

ただ、本の中身を読むと、毎朝の練習は歯を食いしばる特訓というより、親子の遊びの延長に近いものだったことが分かります。

2歳の息子がボールを蹴るだけでも大げさなくらいにほめ、飽きてきたら「あと少しがんばろう」と声はかけても無理強いはせず、締めくくりの1対1は必ず息子が勝って終わるように決めていたそうです(ココカラネクスト)。

公園では「昨日なにがあった?」「だれと遊んだ?」と問いかけて、自分の頭で考えてから話すくせもつけさせていました。

結婚の発表後、この育てられ方をまとめたポストがXで大きく広がり、「天才の裏には親の関わりがあった」とうなる人と、「同じように育てても同じ子が育つわけではない」と返す人の声が並んでいます。

才能か親かの答えは出なくても、ボールを「やらされるもの」にしなかった毎朝が、のちに自分から海を渡ると言い出す少年の土台になったのは確かでしょう。

 

2009年には、横浜で開かれたFCバルセロナのスクールのキャンプでMVPに選ばれ、その特典で出場したベルギーの国際大会でもMVPに。

2010年には川崎フロンターレの小学生チーム(U-10)に入っていて、全学年で約600人が受けた入団テストで、新小学3年生で合格したのは久保建英を含めて3人だけでした。

小学4年生になると2学年上のチームの練習に混ざっていて、当時の監督はのちに「指導した記憶は一切ない。勝手にうまくなっていった」と振り返っています(スポルティーバ)。

そんな少年が、10歳でひとつの大きな決断をします。


10歳でバルセロナへ渡った少年

久保建英の歩みの年表(2011年バルセロナの下部組織へから2026年国王杯優勝まで)

久保建英が世界に知られるきっかけは、2011年、まだ10歳のときに、メッシを育てたことで有名なFCバルセロナの下部組織(プロを目指す子どもたちのチーム)に入ったことでした。

2009年のキャンプと大会を見ていたバルサのコーチの推薦で、2011年4月に、6月生まれなのでまだ9歳で3週間の入団テストを受けて合格し、キャンプ、国際大会、入団テストと3回続けて選ばれて、10歳でバルサの一員に。

入ってからは、言葉も分からない異国の地で、日本の友だちとも遠く離れ、世界中から選び抜かれた同い年の子たちとポジションを争う毎日。

 

母と弟と一緒にスペインへ移り、現地の私立校にバルサの同年代の選手たちと通っていました(川崎フロンターレの発表)。

2013-14シーズンには、地中海カップのU-12の大会で得点王とMVPに輝いていて、同じ下部組織からは、のちにバルサのトップチームへ上がるアンス・ファティやエリック・ガルシアも育っています。

ところが2015年、クラブが18歳未満の外国人選手の扱いをめぐる国際ルールに違反したとして国際サッカー連盟(FIFA)から処分を受け、久保建英は公式戦に出られない状態が長く続いて、いちばん伸び盛りの中学生の年ごろで日本へ戻ることになりました。

 

本人が何か違反をしたわけでは全くないのに、日本へ帰るしかなかったわけで、10代の前半で背負うには、あまりにも大きすぎる挫折。

帰国してからはFC東京の育成チームで着実に力をつけ、2017年に16歳でプロ契約を結ぶと、2019年の夏には18歳で「白い巨人」と呼ばれる名門レアル・マドリードへの移籍が決まり、再びスペインへ戻りました。

ただ、レアル・マドリードのトップチームで公式戦に出る機会は一度もないまま、マジョルカ、ビジャレアル、ヘタフェ、もう一度マジョルカと、籍を置いたままほかのクラブを転々とする「期限付き移籍(レンタル)」で、のべ4回もチームを移る日々が3年ほど続きます。

 

原因は国籍の枠で、スペイン1部では、EU以外の国籍の選手は試合に出るための登録が1クラブ3人までと決まっていて、当時のレアル・マドリードではその3枠をブラジル人のヴィニシウス、ロドリゴ、ミリトンが使っていました(中日スポーツほか)。

日本の会社でいえば、憧れの大手本社に採用されたのに、外国籍の社員が座れる席はたった3つと決まっていて、その3つがすでに先輩たちで埋まっているため、子会社への出向がずっと続くようなものですね。

ブラジルの選手はブラジル国籍のままスペイン国籍も取れて、取れば枠の外へ出られますが、日本は二重国籍を認めていないため、スペイン国籍を取るには日本国籍を手放すしかありません。

本人ものちの2023年6月、この枠の問題に触れて「日本では二重国籍が認められていないので」と話しています(Qoly)。

 

話を戻すと、マジョルカに貸し出されていた2019年11月には、ゴールを決めて大活躍した試合のあとに、お母さんの迎えの車に乗り込んでいく姿が撮られています。

当時はまだあどけなさの残る18歳で、異国の地で母親や家族に支えられながらスペインで戦っていた時期です。

今回の結婚の報告文にも「お互い幼い頃から沢山の方の支えがあって今があります」とありました。


首位バルサを止めた夜のMVP

レンタルを繰り返す遠回りの時間がようやく終わったのは、2022年7月にレアル・ソシエダへ完全移籍してからで、ここで久保建英は、腰を据えて1つのクラブで続けて試合に出られる場所を手に入れます。

2023年9月には、ラ・リーガ全体でその月にいちばん活躍した選手に贈られる月間最優秀選手に、日本人として初めて選ばれています。

もっとも語り継がれているのは、2024年11月10日のバルセロナ戦です。

 

11勝1敗で首位を走っていたバルセロナをソシエダが1対0で破った試合で、MVP(いちばん活躍した選手)に選ばれたのはフル出場した久保建英。

あの攻撃的なバルサが、この試合では相手ゴールの枠に1本もシュートを飛ばせず、ほとんど攻めさせてもらえませんでした。

これはリーグ戦では2014年9月以来、実に10年ぶりのこと。

中学生の年ごろで離れることになった古巣を相手に、たくましく成長した久保建英が主役になった、ひそかなリベンジの試合でもあったんです。

 

そして2026年4月18日には、伝統あるスペインの国王杯(コパ・デル・レイ)の決勝でソシエダが強豪アトレティコ・マドリードとPK戦までもつれた死闘の末に競り勝ち、試合終了間際の88分から出場した久保建英は、プロになって初めてのタイトルを手にしています。

「年収9億円」と言われるのは推定の年俸で、報道によって幅はあるものの、日本円で9億円前後。

さらに年俸とは別に、ほかのクラブが契約の途中で引き抜くときに払う、違約金にあたる「契約解除金」は6000万ユーロ、いまのレートで約96億円という天文学的な数字と報じられていて(市場価値の最高値と同じ6000万ユーロですが、こちらは契約で決めた金額です)、それだけの大金を積まなければ、ほかのクラブは連れて行けない選手なのです。

 

2022年の移籍は、籍そのものをソシエダへ移す完全移籍でした。

ただ、その契約には条件がついていて、レアル・マドリードは保有権(ほかのクラブへ売ったときに移籍金を受け取れる権利)の半分を手元に残したと報じられています。

報道によると、ソシエダがその半分の権利のために払った移籍金は約650万ユーロ、当時のレートで約9億円で、年俸とはまったく別のお金です。

つまり報道どおりなら、ソシエダがほかのクラブへ売ったとき、移籍金の半分はレアル・マドリードに入ります。

 

もしこの約96億円の契約解除金を満額払うクラブが現れれば、契約の決まりとして、ソシエダは移籍を断れません。

ただ、それより値切った金額の申し出ならソシエダは断ることもでき、しかも売っても安い移籍金の半分しか手元に残らないので、なかなか応じにくいはずです。

次の移籍が動くかどうかは、満額を出すクラブが現れるかにかかっていそうです。

久保建英をめぐるお金(推定年俸約9億円、契約解除金6000万ユーロ、保有権の半分はレアル・マドリード)


現地の人も驚くスペイン語

サッカー以外でよく話題になるのが驚くほどの言葉の力で、久保建英は公用語のスペイン語と、少年時代を過ごしたバルセロナのある地方の言葉のカタルーニャ語をほぼネイティブ並みに話し、英語のインタビューも流暢にこなします。

久保建英が話せる言葉(日本語、スペイン語、カタルーニャ語、英語)

10歳からの多感な数年をバルセロナで過ごし、18歳からはまたプロとしてスペインで暮らしてきたので、いまでは試合のあとの取材にスペイン語で気の利いた冗談を交えて答え、現地の記者たちをドッと笑わせる場面も珍しくありません。

2026年6月のワールドカップの期間中に広まった動画では、日本代表の選手が並んで話すなか、久保建英の話し方だけがはっきりとスペインなまりです。

2023年8月には、記者からスペイン語で矢継ぎ早に投げかけられた質問に、その場で日本語に切り替えて淡々と答える姿が、切り替えがあまりに自然すぎて、かえって「違和感がすごい」とネットをざわつかせたことも。

結婚が発表された2026年10月2日にも、久保建英がスペイン語ですらすらと話す動画を添えて、その姿に惚れ直すファンの声が上がりました。


角田裕毅を誇りに思うと話した人柄

実績と同じくらい評判がいいのが、ピッチの外での人柄。

2025年の大みそかには、自動車レースの最高峰F1で戦う角田裕毅について久保建英が語った言葉が、字幕つきの動画で広まりました。

2026年4月に国王杯で悲願の優勝を果たしたあとには、チームのマタラッツォ監督について「本当に頭が良い。銀行員ではなく監督になってくれたことに感謝」と、ユーモアたっぷりにほめちぎっているんです。

今回の電撃発表のその瞬間まで、交際を匂わせる投稿をSNSでただの一度もしなかったことも、サッカーファンに限らず多くの人が好感を持ったところだと思います。

Xには「1ミリたりとも匂わせをしなかったのが個人的に好感度高い」「顕示欲が出ていない本気を感じれて良き」という声も。

お相手の福原遥のほうも、小学1年生で芸能の仕事を始めてから20年あまり、熱愛が一度も報じられないまま今回の結婚を迎えた人です。

まいんちゃんと呼ばれた子役時代から朝ドラのヒロインまで、福原遥の歩みを知りたい方は福原遥Profileまとめ|熱愛報道ゼロを貫いたプロ意識がすごいもどうぞ。


W杯で左膝を痛めた2026年の夏

つい数か月前、2026年6月の北中米ワールドカップという大舞台で、久保建英は初戦の強豪オランダ戦に途中から出場したものの、その試合で左膝を痛めて無念の交代となり、続くチュニジア戦とスウェーデン戦は治療のために欠場しています。

負けたら一発で大会が終わる決勝トーナメント初戦、6月29日(日本時間30日)のブラジル戦では控え選手として登録されましたが、ピッチに立つことは一度もないまま、日本代表の夏は終わりました。

2026年W杯の久保建英(オランダ戦で左膝を痛めて交代、チュニジア戦とスウェーデン戦は欠場、ブラジル戦は出場なし)

大会のあと、スペインの人たちに「久保建英がいたらブラジルに勝てたと思うか」と聞いてまわる動画まで作られたほどです。

W杯の前にも、2026年に入ってからは所属クラブで一時控えに回り、アタッカーとしてなかなか点が取れない苦しい時期を、スペインのメディアに心配されてもいました。

悔しさの残る夏を越えて、10月1日のエクアドル戦で日本代表に戻り、その翌日に結婚を電撃発表しています。

2人の交際は2025年から始まったといわれているので、ケガに泣いたいちばん悔しい夏を、恋人の福原遥も近くで見守っていたのかもしれません。


福原遥を待ち続けた一途さ

福原遥との関係でも、久保建英は簡単にはあきらめていません。

2人をよく知る人の話として報じられたところでは、まじめな福原遥は「サッカー選手はチャラいのでは」と不安に思っていて、久保建英からのアプローチを1〜2年ほどスルーしていたそうです。

2026年10月2日の報告文には、2人の連名で「共に助け合い、笑顔あふれる温かい家庭を築いていきたい」と書かれています。

 

発表の翌日の2026年10月3日、千葉市内での日本代表の練習を終えた久保建英は、左手の薬指に指輪を光らせて記者の前に立ちました。

代表の活動中という異例のタイミングについては「お互い忙しい身ですし、タイミングも限られて。日本に僕が戻ってきたタイミングでっていう感じですね」と説明し、「幸せということを僕の口から言えたら」と続けています(日刊スポーツ)。

馴れ初めは「聞きたかったら、ここからは事務所に聞いてください」と笑ってかわしつつ、「育ててくれた両親、家族のために今まで頑張ってきましたけど、これからはまた違った家族のためにも頑張らないといけないなと思っています」と、夫になった実感ものぞかせました。

スペックの高さは本物ですが、福原遥の心を動かしたのは、1〜2年あきらめずに不安へ向き合い続けたところだったのかもしれませんね。