キャスト発表のポストが流れてきて、俳優の顔写真がずらりと並ぶ。

たいていの人は「ああ、この人か」と名前を確かめて、そのまま指を下へ滑らせます。

ところが同じ画面で、手が止まってしまう人がいるんです。

似ている似ていないを考えるより先に、胸のあたりがすっと冷える。

人気のある原作ほど、この反応は必ず出てきます。

そして、返ってくる言葉もだいたい同じ。

「そんなに嫌なら見なければいいのに」

ただ、あのモヤモヤは、作品の出来を心配する気持ちとは別ものです。

今回は、実写化のたびに繰り返されるあの感覚の正体を、わかりやすく解説していきたいと思います。


顔が似ていないから怒るのではない

まず、いちばん誤解されやすいところから。

原作ファンが実写化を身構えて見るのは、俳優の演技力を疑っているからではありません。

その証拠に、雰囲気のよく似た俳優が選ばれた回でも、発表の直後はやっぱりざわつきます。

「思ったより似てる」と言われているキャストですら、です。

 

ネットに並ぶ声も、よく読むと俳優の話をしていません。

矛先は、選ばれた人ではなく実写化そのものへ向いているんですね。

 

比べられている相手が、そもそも俳優ではないからです。

照合されているのは、その読者の頭の中にしかいない顔のほう。

同じ漫画を10人が読んでいれば、10通りの声で、10通りの歩き方で動く。

しかもその顔には、夢中で読んでいた時期の自分の記憶まで、一緒にくっついています。

誰ひとり同じものを見ていないのに、全員が「こちらが本物だ」と感じているところが、この話のややこしさ。

そこへ、たった一つの顔が「これが公式です」という重みで差し出されます。

 

最初のざわつきは、作品への評価ではなく、自分の中にあった像が消えかける音

怒っているように見えて、実際に起きているのは、もっと静かなことだったりします。

 

千年前も同じ苛立ちがあった

おもしろいのは、これがスマホの時代に始まった話ではないところ。

平安時代の『枕草子』に、ほとんど同じ苛立ちが残っています。

清少納言が「絵にかきおとりする物」、つまり絵にすると見劣りするものを並べた短い段。

挙がっているのは、なでしこ、菖蒲、桜。

そして最後の一つが「物語にめでたしといひたる男女のかたち」。

物語の中ですばらしいと語られていた、男女の姿のことです。

当時も、文字で読まれた物語は、あとから絵巻になりました。

それを見た清少納言は、咲いている桜と同じ列に、物語の男女の顔を置いています。

言葉で読んだ顔は、絵にすると負ける

千年前の宮中で、すでに同じ結論が出ていたわけです。

俳優の力量とか、監督の趣味が合わないとか、そこは関係のないところで起きている話なんですね。


読者は物語の半分を書き足している

では、なぜ言葉のほうが強いのでしょうか。

小説なら、顔の描写はせいぜい数行です。

漫画には絵がありますが、声も、歩き方も、間の取り方も描かれていません。

足りない分は、読みながら読者が自分で埋めています。

しかも一晩ではなく、何年も、長い作品なら十数年かけて。

好きになっているキャラクターは、作者が作った半分と、自分が書き足した半分でできているんです。

 

10年前に読んだ漫画でも、あのキャラの声なら今すぐ頭の中で鳴らせる。

そういう人は、けっこう多いはずです。

でもその声は、どこにも録音されていません。

自分でつくって、自分で何百回も再生してきた音なんです。

 

実写化のニュースが流れた日、ネットにはこんな声が並びました。

引き離される、という言い方がいちばん近い気がします。

 

アニメ化のときに声のキャスティングだけが荒れるのも、たぶん同じ理由。

絵は原作から地続きなので、そこはほとんど揉めません。

なのに声だけは毎回ざわつく。

原作が用意していなかった部分、つまり読者が自分で埋めていた部分だけが、いつも争点になるわけです。

 

実写のキャストを見た瞬間の感覚は、批評というより、卒業アルバムの写真を自分以外の誰かに選ばれたときの気持ちに近いところがあります。

よく撮れているかどうかではなく、記憶と違うほうの顔が代表になってしまう、あの落ち着かなさ。

そして、いちばんこたえるのはここから先です。

一度その顔で動いているところを見てしまうと、原作を読み返したときにも、勝手にその声で再生されるようになります。

好きだった時期の記憶ごと、上から書き換わっていく感じ。

自分で書き足した半分は、上書きされたらもう戻せません。

あのモヤモヤの正体は、キャストへの不満ではなく、長く育てた像をここで手放すことになる予感です。


実写で褒められるのはどこか

ここで、逆のほうも見ておきます。

実写化がぜんぶ嫌われているかというと、まったくそんなことはありません。

評判がいいのは、たいてい原作で描写の少なかった場所やわき役のほうです。

街並み、料理の湯気、名前しか出てこなかった建物、セリフの少ない同僚。

そのあたりは「原作より良かった」と、素直に受け取られます。

 

逆に荒れるのは、読者がいちばん長く見つめてきた主人公の顔だけ。

そしてキャスト発表で先に名前が出るのも、いつだってその主役級です。

読者が自分で像を作り込んでいなかったものは、実写にすると勝つ

作品の出来とは別のところで、ざわつく場所だけがいつも同じになります。

 

ついでに言うと、清少納言も同じ段で、絵にしたほうが良くなるものを挙げていました。

松の木、秋の野、山里、山路。

どれも、物語の中で顔を細かく語られていないものばかり。

 

怒っているのではなく寂しい

ここまで書くと、じゃあ黙って見なければいいじゃないか、という声が聞こえてきそうです。

ただ、見ないという選択で片づかないのが、実写化のつらいところ。

公開されれば、その顔が検索結果にも書店のポスターにも並びます。

原作の棚へ本を買いに行っただけで、帯が新しい顔に替わる。

逃げ場がないので、発表の日にあれだけの声が出ます。

 

もちろん、演じる側に非があるわけではありません。

選ばれた俳優は、その日から何万人分の記憶と見くらべられる仕事を引き受けたことになります。

本人にはどうにもできない比較で、いちばん矢面に立つ。

気の毒なくらいです。

 

そこを分かっている人も、ちゃんといました。

原作ファンほど、演じる人が叩かれるところを見たくなくなる

実写化を身構える気持ちと、この心配は、たぶん同じ根っこから出ています。

 

発表から半日もすると、ネットの空気は少しずつ動きはじめました。

こうやって自分で折り合いをつけながら、みんな公開の日を待つ。

 

だからこそ引っかかるのは、あの数日の声を「うるさい原作厨」の一言でまとめてしまう扱いのほう。

あれは作品への攻撃ではなく、十年かけて自分で描いた顔の見納めに立ち会っている人たちの声です。

もちろん、公開されてみたら良かった、という感想もたくさん出てきます。

それでも発表からの数日だけは、あの静けさに名前があってもいいはずなんです。

あれは怒っているんじゃなくて、たぶん、ちょっと寂しいだけなんですよね。