『24時間テレビ』では毎年、障害のある人がダンスやスポーツ、音楽などに挑戦する企画が放送されます。

一生懸命取り組む姿を見ると、素直に「頑張って!」と応援したくなりますよね。

ところが今年の放送をめぐって、SNSでは少し違う角度からの疑問も出ています。

「テレビに出られる人と、出られない人がいるんじゃない?」

話題になった投稿では、ダンスなどに挑戦する障害のある子どもたちが番組で取り上げられる一方、強度行動障害のように、本人にも家族にも非常に重い支援が必要となるケースは、なぜあまり見えてこないのか。

そんな疑問が投げかけられていました。

 

もちろん、日本テレビが「この障害は出す、この障害は出さない」と選別している事実が確認されたわけではありません。

また、2026年の『24時間テレビ49』でも、脳性まひのある男の子と三つ子のきょうだいが旅に出る企画が放送されています。

つまり、単純に「重度障害だからテレビに出られない」という話ではなさそうです。

それでも「出られる人・出られない人」という言葉が、なんだか妙に引っかかるんですよね。

その理由は、障害の重さそのものより、テレビで物語にしやすい姿と、しにくい姿があるように見えることなのだと思います。

そして、この違いに気づいたときに出てくるのが、障害のある子どもたちが頑張る姿を見ても「なぜか素直に感動できない……」という、少し説明しにくい感情。

障害者企画に何が引っかかった?

今年の放送を見ていて、どこかに小さな引っかかりが残った人は、たぶん少なくありません。

その引っかかりは、番組表を上から下まで並べてみると、思ったよりはっきり形になります。

 

『24時間テレビ49』のテーマは「わたしの家族の話〜あなたは誰を想う?〜」。

8月29日の夕方から30日の夜まで、両国国技館を中心に放送されました。

そのなかで、障害や病気のある人が出てきた企画を書き出すと、こうなります。

  • 車いすの少女と内村ファミリー 仕掛け満載!48人タットダンス
  • 京本大我と耳の不自由な子どもたち 届け!ドラムライン
  • 田中樹&森本慎太郎がサポート 脳性まひの二男とともに 仲良し三つ子が真夏の絶景旅
  • 芳根京子が取材 難病ALSの母が子どもに残したい命のレシピ
  • SixTONESが総勢130人で生パフォーマンス「ボーダーレスLIVE」

どれも、誰かが動いて、何かが起きる企画です。

 

29日に披露されたタットダンスの主役は、10歳の柴崎里美さんでした。

生まれつき足首が曲がったままで、立って歩くことはできません。

体育館でたまたま見た車いすダンスに心を奪われて、2023年から練習を始めたそうです。

本番のステージは、お母さんや教室の仲間を入れて総勢48人。

ここまでは、素直にすごいと言える話です。

 

ただ、同じ番組表を、今度は「無いもの」を探しながらもう一度見てみます。

知的障害、精神障害、発達障害を主題にした企画は、1本もありません

今回SNSに出た疑問が見ているのは、たぶんこの空白のほう。

この投稿が言う「テレビにはとても映せない人」に、たとえば強度行動障害の状態にある人が入ります。

厚生労働省の検討会報告書の説明は、こうです。

自傷、他害、こだわり、もの壊し、睡眠の乱れ、異食、多動など、本人や周囲の暮らしに影響を及ぼす行動が著しく高い頻度で起こり、特別に配慮された支援が必要になっている「状態」のこと。

病名ではなく、状態です。

生まれつき決まっているものではなく、周囲の環境や関わり方によって現れるものだと整理されています。

 

この状態にあるとして支援や加算の対象になっている人は、令和3年10月の時点でのべ68,906人

その一人ひとりに、朝があって夜があります。

「練習しました」「本番を迎えました」「できました!」という数分間の物語に、その毎日は収まりません。

今年、その毎日を主題にした企画は、番組表のどこにもありませんでした。

「出られる人」が選ばれやすく見える理由

『24時間テレビ』が、障害のある出演者や企画をどんな基準で選んでいるのか。

その選考基準は公表されていません。

だから「こういう人は出られない」と外から断定するのは、無理があります。

ただ、テレビ番組として何が作りやすいかを考えていくと、選ばれやすい題材の輪郭は見えてくる。

投稿が言う「見える困難」と「わかりやすい涙」。

それがどう作られているのかを、3つに分けて見ていきます。

 

挑戦や成長が映像にしやすい

テレビは映像です。

できなかったことが、練習を経て、少しずつできるようになる。

この流れは、途中から見た人にも一目で伝わります。

最後に成功すれば、スタジオも視聴者も一緒に拍手できる。

番組の構造としては、これ以上ないくらい作りやすい形です。

 

反対に、毎日の介助や見守り、本人に合う環境づくり、家族が少しでも休める時間の確保は、短い時間では変化が見えません。

劇的な出来事が、何も起きない日。

でも、その「何も起きなかった一日」を作るために、ものすごく大変な支援が必要な家庭もあります。

そこには本番がありません。

 

視聴者が感情移入しやすい物語になる

挑戦の企画には、はっきりした筋書きがあります。

困難があって、目標を決めて、練習して、家族や仲間が支えて、本番が来て、成功する。

初めて見る人でも、置いていかれません。

本人が本当に望んだ挑戦なら、その経験に大きな意味があるのも確かです。

 

今年の「ボーダーレスLIVE」には、総勢130人が立ちました。

耳の聞こえないダンサー、右手の親指以外を欠損したギタリスト、義手のギタリスト、全盲のドラマー。

一人ひとりの技術は本物です。

ただ、並べてみると、共通点が一つ浮かびます。

全員、ステージの上でパフォーマンスができる人でした。

 

この形の物語ばかりを見続けると、少しずつ何かがずれていきます。

いつのまにか「障害があっても努力して何かを達成する人」だけが、障害者のイメージになっていく。

でも現実には、全員が大きな目標に挑戦したいわけではありません。

努力しても、結果が見えにくい人。

「できることを増やす」より、安心して暮らせる環境を整えるほうがずっと切実な人もいます。

分かりやすい物語は、たしかによく伝わる。

でも、伝わりやすいものだけが現実ではありません

 

「できた!」で終われる企画が強い

チャレンジ企画には、きれいなフィナーレがあります。

踊れた、歌えた、登れた、演奏できた。

最後に「できた!」があれば、本人も家族も笑顔になり、番組も気持ちよく終われます。

 

福祉の現実は、そこまできれいに区切れません。

厚生労働省の検討会報告書には、こんな推計が載っています。

強度行動障害のある人のうち、障害福祉サービスにつながっていない人が1自治体あたり0.50人、サービスは使えていてもニーズが満たされていない人が2.98人。

家族への聞き取りでは、事業所の側から利用を断られて中断した例も報告されているそうです。

 

国も、手をこまねいているわけではありません。

強度行動障害支援者養成研修の受講者は、令和2年までに基礎研修が87,423人、実践研修が46,087人にのぼるとのこと。

それでも、受け入れ先が足りない状態は続いています。

ここには「できた!」の瞬間がありません。

あるのは、探して、断られて、また探すという時間です。

 

「できた!」を作りやすい人は、テレビに映しやすい

「今日も何とか一日を過ごせた」という生活は、映しにくい。

この差が、「出られる人・出られない人」という言葉になっていく。

頑張る姿を素直に応援できない理由4つ

ここでもう一つ考えたいのが、「なぜ障害のある子どもが頑張っているのに、素直に応援できないことがあるの?」という疑問です。

頑張っている子がいれば、本来なら応援したいですよね。

それなのに番組を見ていると、なぜか気持ちが少し止まってしまう。

これは単に「感動できない冷たい人」で片づけられる話ではなさそうです。

 

① 感動のために頑張らされているように見える

最初に引っかかるのは、「これって本人がやりたいの?それとも番組がやらせたいの?」という疑問。

本人がダンスをしたい、歌いたい、スポーツをやってみたい…

その気持ちから始まった企画なら、挑戦すること自体を否定する理由はありません。

 

ただ、テレビでは音楽やナレーション、過去の苦労、家族の涙などが重ねられていく。

演出が強くなればなるほど、「この子を応援してください」ではなく、「この子を見て感動してください!」と言われているように感じる人も出てきます。

ここでちょっと身構えてしまうんですよね。

子どもの挑戦を応援したくない、という話ではなくて。

その頑張りが、本人のためなのか、視聴者を泣かせるためなのか分からなくなる。

この違和感なんです。

 

② 画面の外にいる人の存在が気になる

今回のSNS投稿が投げかけたのは、まさにここ。

テレビには、

  • 踊れる人
  • 歌える人
  • スポーツに挑戦できる人
  • カメラの前で自分の気持ちを伝えられる人

こうした姿が映ります。

 

じゃあ、こういう人は?

  • 人混みや大きな刺激に強い負担を感じる人
  • 自傷や他害などへの専門的な支援が必要な人
  • 自分の意思を言葉で伝えることが難しい人
  • 撮影そのものが本人の負担になりかねない人

……やっぱり気になりますよね。

「障害について知る番組」を見ているはずなのに、その人たちの生活だけが、すっぽり抜け落ちていく。

そうなると、「いま見ている障害者像って、現実のどこまでなんだろう?」という疑問が生まれます。

画面の中を見ながら、どうしても画面の外が気になってしまう。

素直に物語へ入り込めなくなるのは、たぶんこのためです。

 

③ 「できた」が別の誰かを苦しくさせる

「障害があっても、ここまでできました!」

前向きな言葉です。

でも、少し見方を変えると、そこはなかなか複雑。

同じ診断名があっても、状態は一人ひとり違います。

生活環境も違うし、利用できる支援も違う。

努力したからといって、全員が同じ結果へたどり着けるわけではありません。

 

そこで、「あの子はできた」が、「じゃあ、あなたも頑張ればできるんじゃない?」に変わったとしたら

それはもう、励ましとはちょっと違いますよね。

本人だけでなく、毎日支えている家族まで「もっと頑張れるんじゃない?」と見られてしまうかもしれません。

できた人を称えることと、できない人の価値はまったく別です。

ここが混ざってしまうと、「できた!」という明るい物語が、画面の外にいる別の誰かを苦しくさせてしまう可能性があります。

④ 障害より本人を見てほしいという違和感

そして最後は、その人自身の存在です。

テレビでは企画を説明するため、

  • 「脳性まひの○○さん」
  • 「ダウン症の子どもたち」
  • 「車いすで生活する○○さん」

といった紹介が必要になります。

でも、それが強くなりすぎると、「この人はどんな人なんだろう?」より先に、「障害があるのに頑張っている人」として見てしまう。

好きなもの、苦手なもの、性格、冗談を言うところ、今日は何もしたくない日…そんな普通の部分より、「障害」と「挑戦」が前に出てしまうんですよね。

応援したいはずなのに、なぜか引っかかる。

それは、本人を見ているつもりで、「感動できる障害者」という役割を見ているような気がするからなのかもしれません。

重度障害をテレビで扱う難しさ

では、「そんなに偏っているなら、もっと重い障害がある人を出せばいいじゃん!」で解決するのでしょうか。

ここも、そんなに単純ではありません。

そもそも今回の論点は、「重度障害」という大きなくくりより、撮影やテレビ企画に乗せること自体が難しい状態をどう扱うかと考えたほうが正確です。

実際、2026年の『24時間テレビ』でも、脳性まひのある男の子は取り上げられています。

つまり、問題は障害の重さだけではないんです。

 

撮影そのものに大きな負担がかかる

たとえば強度行動障害の状態にある人には、本人の特性や環境に応じた専門的な支援が要ります。

  • 大勢のスタッフ
  • カメラ
  • 照明
  • いつもと違う予定
  • 知らない人が家に入ってくる

こうした環境の変化そのものが、本人にとって大きな負担になる可能性も考えなくてはいけません。

 

「社会に知ってもらうためだから!」

という理由で、本人の日常を乱していいわけではないですよね。

認知を広げるための撮影が、本人を苦しめてしまったら本末転倒です。

 

安全面と本人の尊厳をどう守るか

もう一つ難しいのが、「どこまで映すの?」という問題。

たとえば強度行動障害を説明するとき、自傷や他害、物を壊すといった行動だけを強調すれば、たしかに視聴者へのインパクトはあります。

でも、その瞬間だけが全国に流れたらどうでしょう。

本人には好きなものがあって、

穏やかに過ごしている時間もあります。

支援がはまれば、暮らしは落ち着いていく。

それなのに、「あの暴れていた人」という印象だけが残ってしまう可能性があります。

厚生労働省も、強度行動障害について適切な支援によって状態の安定や改善が期待できることを示しているとのこと

「大変な障害者を映しました!」で終わってしまったら、理解ではなく恐怖を広げるだけになりかねません。

本人が自分の姿を全国放送されることについて、十分な意思表示が難しいケースでは、なおさら慎重さが必要ですよね。

映さないことで存在が見えなくなる問題と、映すことで尊厳を傷つける問題がどちらもあるんです。

 

成功物語にまとめにくい現実がある

そして、テレビとして一番難しいのは「終わり方」なのかもしれません。

ダンスや歌には本番があり、スポーツならゴールが見えてくる。

でも、日々の支援や介護にはエンディングがありません。

朝起きる、食事をする、必要な支援を受ける。

調子を崩せば予定を変更する。

夜になれば、また明日の生活が始まります。

何かを達成して拍手!

……そんな日は来ないかもしれません。

でも、その生活に価値がないわけではありませんよね。

むしろ、「特別な奇跡は起きなかった。でも、今日も一日を過ごせた」という日常こそ、テレビから抜け落ちやすい現実なのだと思います。

映らなかった人たちの毎日

とはいえ、これは『24時間テレビ』だけを責めれば済む話でもありません。

番組には番組の事情があります。

 

この番組が始まったのは1978年。

第1回のテーマは「寝たきり老人にお風呂を! 障害者にリフト付きバスと車いすを!」でした。

そこから48年で集まった寄付金は、累計469億3,057万4,753円。

贈られた福祉車両は、累計1万2,648台にのぼるそうです。

小さくない数字。

去年の第48回だけでも20億1,332万6,946円が集まり、歴代最高額だったとのこと。

委員会の運営経費は日本テレビを含む31社が負担していて、寄付金からは出していないそうです。

 

この規模を毎年続けるには、まず見てもらう必要があります。

番組を作ってきた側も、そこは隠していません。

出演者にギャラを払わなければ番組の形が成り立たないこと、スポンサーの集まるテレビ番組がなければ寄付どころではなくなること。

「感動ポルノ」という批判は知ったうえで、そう説明しているそうです。

 

一方で、その違和感のほうも、今年始まったものではありません。

「感動ポルノ」は、オーストラリアのジャーナリストだったステラ・ヤングさんが2012年に使い始めた言葉です。

2014年のTEDの講演では、障害のある人が、障害のない人が気分よくなるためにモノとして扱われている、と話しています。

日本でこの言葉が広まったのは2016年。

NHK Eテレの『バリバラ』が、24時間テレビの裏で『検証!“障害者×感動”の方程式』を放送した回でした。

乙武洋匡さんも、メインパーソナリティーのオファーを断ったことを明かしています。

「かわいそうな人たちが、こんなに頑張っている」という扱いへの違和感が、その理由だったそうです。

10年たっても、同じ言葉が出てきます。

毎年です。

 

ここで「番組が悪いのか、批判する側が神経質なのか」の二択にしてしまうと、大事なところを見落とします。

48年で1万2,648台の福祉車両が届いたことは、事実です。

今年の番組表に、知的障害や精神障害を主題にした企画が1本もなかったことも、同じくらい事実。

令和7年版の障害者白書によると、知的障害のある人は126万8千人、精神障害のある人は603万人。

どちらも、けた違いの人数です。

その毎日は、少なくとも今年は映っていません。

 

何を映すかだけでなく、何を映さないかまでメッセージになる

いつも挑戦する人、成長する人、最後に笑顔で「できた!」と言える人。

そうした姿ばかりが並べば、見ている側の頭のなかでは、それが「障害のある人」の形になっていきます。

 

怖いのは、番組が偏っていることそのものではありません。

画面に映った人たちだけを見て、「障害について分かった」と思ってしまうことです。

 

テレビに出て挑戦できる人にも、その人なりの生活があります。

テレビでは企画にしにくい人にも、その人の日常。

どちらかだけが「本当の障害者」ではありません

 

柴崎里美さんが48人と踊ったステージは、良いものでした。

あの拍手を否定したい人は、たぶんほとんどいません。

それでも、拍手の鳴らない場所で、今日が静かに終わっていく家。

今年これだけざわついたのは、番組の中身そのものより、その家のことを思い出してしまった人が多かったからなのだと思います。