人はなぜ、たった一つの言葉をきっかけに、そこまで残酷になれるのでしょうか。

ただ「別れよう」という、どこにでもありそうな言葉。

その一言が、どうして二時間にも及ぶ痛ましい暴力の引き金となってしまったのでしょうか。

誰もがその凄惨なニュースに接したとき、まずは怒りや悲しみに震えるはずです。

 

でも、それと同時に、どこか得体の知れない「不気味さ」を感じてはいませんでしたか?

「ただ同調しただけ」「逆らえなかった」。

加害者たちが口にするその言葉は、どこか責任を他人へと丸投げしているように聞こえますよね。

世間では「若者の集団心理」や「SNS社会の歪み」といった言葉で片付けられがちですが、本当にそれだけで納得して良いのでしょうか。

今回は、あえて少しだけ視点を広げてみたいと思うのです。

現代の事件の背後にある、古くからの神話や寓話。

私たちが無意識のうちに抱えてしまう「被害者意識」という名の闇を紐解くことで、この事件が私たちに突きつけている残酷な問いかけを、静かに見つめ直してみましょう。

 

江別大学生暴行死事件

2024年10月、北海道江別市の公園で起きた事件は、あまりに多くの人の心を傷つけました。

事件の発端は、八木原亜麻被告に対して、被害者である長谷知哉さんが別れを告げたことだったとされています。

その後、八木原被告は仲間に連絡を取り、その仲間たちが長谷さんを呼び出し、暴行を加えたというのが警察の発表です。

わずか数時間の出来事の中に、殴る蹴るの暴行、カードを奪い買い物をしたり現金を引き出すなどの強盗、さらには髪に火をつけるなど信じられない所業が詰め込まれていました。

 

逮捕された六人の若者たち。

その中には、直接手を下した者もいれば、その場にいただけという者もいるかもしれません。

しかし、法廷の場で彼らが一様に主張したのは、自分たちもまた「状況に流された」という受動的な態度でした。

 

この「自分は悪くない、ただそこにいただけだ」という防衛本能。

これこそが、この悲劇をより一層、恐ろしいものにしている正体なのではないでしょうか。

誰か一人が悪魔になるのではなく、集団という名の匿名性に隠れて、正義の皮をかぶった暴力が膨れ上がっていく様子は、現代社会に生きる私たちにとって、決して他人事とは言い切れない怖さがありますよね。

江別事件の集団心理を神話を通して考える

事件が起きるたびに、私たちは「なぜあんなことが起きたのか」という理由を必死に探します。

しかし、人間の残酷な側面というのは、意外と古くから変わっていないのかもしれません。

神話や古典の世界を覗くと、現代のニュースで見かけるような「集団心理の暴走」や「歪んだ正義感」が、すでに何度も繰り返されてきたことに気づかされます。

歴史や文学は、単なる過去の物語ではなく、人間の心の奥底にある「変わらないもの」を写し出す鏡のようなものです。

 

加害者たちの心に渦巻いていたであろう「自分こそが被害者だ」というねじれた感情。

そして「傷ついた友人のため」という誤った方向への正義。

それらを神話の登場人物と重ねてみることで、この事件を単なる犯罪として消費するのではなく、人間が抱える闇そのものについて、少しだけ深く考えるヒントが見えてくるはずです。

 

①カインとアベルの嫉妬と被害者意識

旧約聖書に登場する「カインとアベル」のお話を覚えているでしょうか。

兄であるカインは、神が弟のアベルの供物を喜んだことに激しい嫉妬を覚え、弟を殺めてしまいます

この物語で注目すべきなのは、殺人の直後、カインが神に対して言い放つ言葉です。

「私は弟の番人ではありませぬ」。

自分が行ったことに対して責任を感じるどころか、どこか開き直ったような態度ですよね。

 

このカインの姿は、今回の事件で「同調しただけ」と語った被告たちの姿勢と、奇妙なほど重なっていませんか。

「自分はただ、周りの空気に合わせていただけ」という主張は、ある意味で「自分は誰かの守護者ではない」という自己正当化の裏返しです。

自分の嫉妬や不満を、被害者のせいにすることで心の均衡を保とうとする。

この「被害者意識の暴走」こそが、カインから現代の若者たちまで、時代を超えて人々を恐ろしい暴力へと突き動かす原動力になっているのだとしたら、少し背筋が凍る思いがしませんか。

  • 被害者意識の暴走が招く負の連鎖
  • 責任転嫁による歪んだ自己正当化

②ギリシャ神話:ペンテウス王の悲劇

ギリシャ神話の悲劇にも学ぶところがあります。

自らの理性や秩序を信じきっていたバッカイのペンテウス王は、新しい神ディオニュソス(酒と狂気の神)を「異端」と拒否し、信者を弾圧しました。

その結果、熱狂する集団(狂信者たち)によって無残に引き裂かれる物語が描かれています。

ここで興味深いのは、ペンテウスを殺したのは、他でもない彼の家族や親しい人々だったという点です。

 

お互いが自分の「正義(常識)」を押しつけ、相手の感情や集団の流れを無視した結果、取り返しのつかない報いを受ける。

ある誰かを「悪」と決めつけると、周囲がそれに同調し、暴力や言葉の刃を向けることに躊躇がなくなる。

「あいつが悪いから、何をしてもいい」という免罪符が、集団という隠れ蓑の中で完成してしまうのです。

ペンテウスの悲劇は、どれほど理性を説いても、集団が一時の感情に流されてしまえば、愛や信頼などいとも簡単に崩れ去るという残酷な現実を教えてくれています。

 

③ギリシャ神話:オルフェウス

一方で、オルフェウスの神話は、また違った視点を私たちに提示してくれます。

亡き妻を取り戻すために冥界へ降りたオルフェウスは、愛する妻と地上に戻れることになったのに、最後に「振り返ってはいけない」という約束を破ってしまったために、妻は再び冥界へ。

ここまでは日本神話の「イザナギとイザナミ」とそっくりなこの話ですが、この続きが違うのです。

 

男前で一途なオルフェウスには女性たちから好意を寄せられます。

しかし、愛妻家であったオルフェウスは悲しみのあまり女性を拒絶し続け、ただ一人で哀しい曲を奏でながら旅を続けました。

これに激しく嫉妬したトラキアの女たちが、オルフェウスを囲んで引き裂き、殺してしまいます

失恋して傷ついた結果、相手への愛が憎しみに変わり、集団での暴力で鬱憤を晴らそうとする。

 

神話が描くのは、英雄の物語ばかりではありません。

こうして、私たちの内側に眠る「身勝手な期待」がいかに脆く、時に人を狂わせるかという、人間の未熟さを語り継いでいるのです。

現代人への教訓

事件から時間が経ち、いよいよ法廷での審理が進んでいく中で、世間の関心は「彼らにどのような罰が下されるのか」という点に集まっています。

厳罰を求める声は、被害者を悼む純粋な気持ちの表れでしょう。

もちろん、罪に対しては相応の責任を負うべきであり、そこから目を逸らしてはいけません。

しかし、裁判が終わったとしても、私たちが本当に向き合うべき問いは消えないのではないでしょうか。

 

「日常の中に潜む『自分は悪くない』という小さな被害者意識が、いつか大きな暴力の芽にならないと誰が言い切れるか?」

彼らへの判決が下された後、私たちはこのニュースを「遠い世界の出来事」として忘れてしまうのか、それとも、自分の中にあるかもしれない脆さと向き合うきっかけにするのか。

優しさを持って他者と向き合うということ。

それは、どんなに些細な別れ話であっても、相手を一人の人間として尊重し続ける、ただそれだけで十分なのかもしれませんね。

  • 自分ごととして事件の本質を捉える視点
  • 日常に潜む心の脆さと静かに向き合う姿勢